No.13 30歳目前の決断 夫婦ふたり、次なる挑戦の場に選んだのは母国ドイツ
初めて日本に来てから8年が経った。母国・ドイツから飛び立ち、日本で就職、日本人男性と結婚した品川ウルスラさん(30)。チャレンジ精神があり、新しい環境に飛び込むことをいとわない。しかし、就職した日本の企業で挫折を味わった。夫も仕事が忙しく、夫婦で満足に過ごす時間はわずか。その現状を打開すべく、夫婦が選んだ道はドイツで新しく挑戦することだった。
(東京・上野公園にて。大学時代、日本へ滞在していた時によく足を運んでいたのが上野駅近くのスターバックスだった)
ホームステイ先で日本人男性と知り合う
ウルスラさんの故郷はドイツ南部・バイエルン州のランツベルク。大都市ミュンヘンの西50キロ、歴史ある街並みが残る。4年に一度、子どもたちが中世時代のコスチュームでキャンプなどを楽しむお祭り「ルーテンフェスト」が有名だ。
18歳になったら海外に行こうと決め、13歳からアルバイトを続けて渡航費用を貯めた。とりわけ興味をもったのはアジア。モダンと伝統が混ざり合いながら、スピーディーに成長している場所と映った。そして目標通り、18歳の時に友人とタイなどに旅行。ある思いが芽生えた。
「新しい経験が好き。つまらない生活は嫌い。自分で考えて動ける、大きい会社で働きたい」
20歳になったばかりの2007年、英語の語学留学でシンガポールに行った。同じホームステイ先だった年上の日本人男性と知り合い、帰国後もメールのやりとりを続けた。
(休日に登山へ出かけることがある。高尾山から富士山まで挑戦した。頂上から眺める景色が好き。「ドイツではAllgaeu地方の山々が好き」)
日本で初めての就職先はユニクロ
2008年、ドイツの大学に入学するも、雰囲気が合わずに2カ月で退学。翌年、日本にホームステイで訪れた。前の年にシンガポールで知り合った男性の存在もあり、彼が住む国に親近感を持っていたからだ。ホストファミリー先はたまたま福岡になった。彼も福岡県内で働いていたため、日本へ向かう空港で彼にメールした。偶然が引き寄せた再会。2人が付き合い始めるまで、そんなに時間はかからなかった。
いったん帰国後、2009年にオーストリア・ウィーンの大学へ入学。朝4時に起きて勉強漬けの生活を続け、2011年に再来日。慶応大学へ留学した。彼との交際が続いていたことをもあり、日本での就職を考えるようになる。興味をもったのがユニクロ。商品も気に入っていたし、社内公用語が英語であることなどにも惹かれた。最終面接は社長と。たった5分間だったが、緊張したのは言うまでもない。
「『なぜあなたが?』と聞かれた。思いを伝えたところ、その場でOKが出た」
2012年に入社。東京都内の大型店舗での勤務が始まった。
(「ドイツではもっと大きい女性がいるけど、日本では誰よりも大きい」。身体172cm)
自然な成り行きで結婚
ドイツにいる家族に彼を紹介した時、母親は温かく迎えてくれた。「私は早くに父を亡くしていて、母親と妹と3人暮らしでした。母はおもてなしをするのが大好きで、彼との結婚にも好意的でした」
付き合っていた彼とは同棲生活を経て、翌年に入籍。お互い「結婚」という言葉を口にしなくとも、一緒になる存在ということがわかっていたため、ごく自然な成り行きだったという。
彼に出会う前は国際結婚するとは夢にも思わなかったとはにかむ。結婚式は軽井沢の教会で行い、ドイツからは家族を含む、16人が来日して参列した。
「結婚に迷いはなかった。夫は真面目で優しい。コミュニケーションは以前英語だったけど、今は日本語を使っています。ケンカはほとんどしないし、お互い我慢もしていないです」
プライベートは順調だったが、仕事面では厳しい現実にぶち当たった。
頑張っても報われない日々
現場を大切にする方針のユニクロでは、国籍を問わず基本的に全社員に店舗経験および店長経験を求める。一番難しかったことは、外国人として店長になることが本当に必要なのかという疑問が解けなかったことだと振り返る。
「自分の意見を主張しても、言い訳に捉えられてしまった。頑張ってもダメだった。自分の頑張りが足りないと思った」
店長を目指して日々の業務に取り組むも、「店舗に貢献できない」と思える日々が続いた。もっと頑張れるのではないかという自問自答を繰り返すも、体が限界を迎え始めた。夫にも相談をして、悩みに悩んだ末、2015年4月末でユニクロを退職した。
夫と過ごす時間は日曜の夜のみ
もともとは働くことが好きな性分。1カ月だけ休養して、外資系大手自動車メーカーのマーケティング部門に就職した。ビジネスで使用する日本語の難しさに苦労をすることもあったが、同僚が助けてくれたので、おおむね楽しくやれていた。
一方でウルスラさんには、以前から心に決めていたことがある。30歳までには一度ドイツに帰ろうという思いだ。その30歳が目前に迫るにつれ、地元の友人や家族の近くにいたいと思う気持ちが、日増しに強まってきた。
加えて、夫婦の状況もあった。夫の職業は教師。部活動の顧問として土日も出勤する多忙さゆえ、二人で過ごす時間が日曜の夜しか取れない。ずっとこのままなのかと不安が膨らんでいた。打開策として、“住む国を変える”というのもひとつなのでは、と思ったのだ。
一緒にドイツに戻りたい。夫に相談すると、二つ返事でOK。自分の仕事をやめて渡独することに同意してくれた。
「実はこれまでに何度も、二人でドイツに行くことについて話し合っていました。話せば話すほど、ドイツで暮らすことに夫は興味を持ち始めていたのですが、『やっぱり日本を離れたくない』って言われたらどうしようと思うこともありました。でも、ラッキーなことに、実際にはそういうことは起きませんでした」
初めてのひとり暮らし
夫の退職のタイミングは、学期末の3月末の予定だったため、先に渡独することになった。幸い、同自動車メーカーのドイツ本社に採用され、昨年10月からは物流部門で働いている。実家から通うのが難しいため、夫が来るまではひとり暮らしだ。ウルスラさんはドイツ人だが、母国での社会人経験は皆無。年金や保険などの制度も正直よく知らない。ひとり暮らしも初めてだ。それでも、まずは何事もやってみることが大切だと思っている。
「でも、寂しいだろうから、帰国したその週にインコを飼う」という一面も。
(国際結婚をするとは夢にも思わなかったと振り返る)
後追いで渡独する夫は、ドイツ語は話せないため、仕事の合間をぬいドイツ語検定に向けて猛勉強し、合格した。ドイツでの夫の就職先は未定。だが、先を案じても仕方ないとウルスラさんは言う。日系企業も多いため、動き続ければ道は拓けると考えているからだ。
「私だって全く日本語が話せない状態で日本に来たけど、二つの素晴らしい会社と出会うことができたんだから夫も絶対大丈夫」
元々スポーツが好きなため、ドイツでは二人でハイキングや自転車ツーリングなどをするのが楽しみだという。本来、住む場所にはこだわりがない。「数年後、ドイツでもなく、日本でもない場所にいるかもしれない」と語る表情に、不安の色は一切なかった。
【プロフィール】
座右の銘:Zeh Juli(ツェー・ユリ)
「Spieltrieb」(play instincs 本能のままに楽しむ )
生年月日:1987年11月22日
さそり座(ドイツでは22日までがさそり座) AB型
経歴:Ignaz-Koegler-Gymnasium→Otto von Guericke Universitaet Magdeburg中退 →Vienna University of Business and Economics→ユニクロ→大手外資自動車メーカー
趣味: 旅行。「京都が1番。温泉は湯布院」
特技:英語、日本語、フランス語。
「中国語は3か月でリタイア。ラテン語は4年学んだけど、
日常で使えないところが残念」
家族:母、妹(3個下)、日本人の夫(38歳)
好きな食べ物:パン(ドイツパン)全粒パン。プレッツェル「南ドイツのが一番!」
嫌いな食べ物:ホルモンは苦手
好きなタイプ:正直(honest)、
信頼できるreliable(約束を守る、時間通りに来る)
嫌いなタイプ:自慢する人。自信はいいけど。
尊敬する人:お世話になった会社の上司
筆者との接点:ユニクロ同期
デスク 浜崎 空
執筆・写真 小野 ヒデコ
<小野ヒデコプロフィール>
1984年、東京生まれ横浜育ち。同志社大学文学部英文学科卒業後、自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.12 「出来るか出来ないかじゃなく、やるかやらないか」 自称『スリザリン』タイプの大学院生が実現したいこととは?
在学中の大学院を休学し、地元・福島県白河市で空家をリノベーションして、コミュニティ・カフェをの創設をしている青砥和希さん(24)。
自分のことを「器用な人。だけど、納得しないことや違和感を抱えたまま進むのが苦手」と分析する。高校時代に居場所がなかった経験が、教育に携わりたいと思うきっかけとなった。東京の大学へ進学した年に起きた東日本大震災。幸い、家族や知り合いは皆無事だった。それでも「私も福島で被災していればよかった…」とつぶやく。生まれ育った白河市で、「福島」を想い、周りを巻き込みながら自分のやりたいことを実現していく。
自治体と交渉。学生カフェオーナーに
青砥さんは現在、在籍中の東京の大学院を休学して福島県白河市に住む。休学の理由は、空き家をリノベーションしてカフェ「エマノン」を運営するため。白河市が地方創生の一環として設立するミュニティ・カフェで、2016年3月にオープンした新しい公共施設だ。カフェをはじめ、日々の自習や作業空間として誰でも使える。「学術、工芸、アートなど、様々なイベントを通じ、地域で新しい学びを実践」(HPより)。壁塗りやカフェの椅子づくりからリノベーションはスタート。どの工程も「イベント」や「ワークショップ」の形をとって、周りを巻き込みながら形作っていく。
「自分がマイナスになることは避けます。新しい経験や金銭的負担がかからない方に物事を持っていった方がモチベーションも上がるので」
震災後に感じた無力感が原動力に
2011年3月11日、青砥さんは大学首都大学東京の1年だった。幸い、地元の県南地域は、浜通り付近と比較すると震災の直接の被害は小さく、家族や親せき、知り合いは無事だった。「被災してれば良かった」とつぶやく、その本意は次のようなものだろう。
同じ地域に暮らしている人と同じ体験をして、その時の体験をわかちあいたかった。
福島出身でありながら、あのときの揺れと恐怖を皆と一緒に共有できなかったことがただ辛い―
翌日3月12日に、「そっちに行くよ」と実家に電話をかけるが、「危ないので来なくていい」と母親に言われる。「あの時、あの場にいたら何かできたかもしれない。役に立てずにいたことに無力感、悔しさがこみ上げてきました」
メディアでは「福島」と一括りにされるが、福島県の中にもたくさんの地域があり、それぞれの課題があることについて言及する。
例えば、少子高齢化による人口減少や第一次産業の後継ぎ問題などは、震災以前からの社会問題だ。それらを区別して問題解決していく必要があると指摘する。
「〝復興〟には5年、10年と長い年月がかかります。そして〝善意〟だけでは必ず息切れします。継続的に復興支援するためには、活動する人自身が利益を得ることも必要になってくるのではないでしょうか」
ハリー・ポッターの「スリザリン」タイプ
地元・白河そして福島の復興のために尽力をかける青年…である一方で、自分のことを客観的にこう表現する。
「ハリー・ポッターで例えるなら、〝スリザリン″ですね。〝グリフィンドール″ではないです」
イギリスのファンタジー小説のハリー・ポッターシリーズ(J.K.ローリング著)で登場する魔法学校ホグワーツは魔女や魔法使いの少年少女たちが在籍する全寮制の学校。4つの組があり、入学時に一人ひとり「組分け帽子」により所属が割り振られる。主人公のハリー・ポッターをはじめとするメインキャラクター達は「グリフィンドール」という、熱くて正義感溢れる組に選ばれる。その対極のある組がスリザリン。ハリーと相いれない狡猾で野心家のマルフォイが属した組だ。
「泥臭いことは嫌いです。よく考えて行動するずる賢いタイプです」とさらりと言い放つ。
モットーは「やるかやらないか」
そんな青砥さんだが、納得しないことや違和感を抱えたまま進むのが苦手という一面もある。わからないことは納得するまで自分で調べたり、相手と議論したりする。
高校1年の冬、制服の規則について首をかしげる出来事があった。カーディガンを学ランの中に着るのはOKだが、学ランなしでカーディガンを着るのはNG。そのルールに疑問をもち、教師に問うてみたが「それが規則だから」という一点張りの回答。
「納得できませんでした。理由があればちゃんと理解できたかもしれないのに…」
さらに、勉強面においても憤りを感じたことがあった。文系の青砥さんは、社会科の授業を選択する際、地理を履修しようとする。ところが、文系の選択肢は日本史か世界史のみ。地理は理系の選択科目だった。
なぜ自分が学びたい教科を選べないのか、
そのときの気持ちを教師にぶつけてみると、返ってきた答えは「そうなっているから」だった。
「学校の人件費の都合でなぜ自分が本当に学びたいことを選べないんだ」
モヤモヤしたものを残したまま、仕方なく世界史を選んだ。受験へのモチベーションは下がった。 その後、とある大学のオープンキャンパスで地理の模擬授業を受けたとき、その面白さを再確認する。そして突如ひらめく。
「授業を履修できないのであれば、独学で地理を学べばいいんだ」
そうして独自で学び、疑問は地理の先生に質問していた。その教員は独学を応援してくれ、勉強して浮かんだ疑問にも納得できるまできちんと応えてくれた。そうして受験へのモチベ―ションも徐々に上がっていき、希望した首都大学東京に合格。大学で地理学を学べることになった。青砥さんの好きな言葉、「出来るか出来ないかではなく、やるかやらないか」を体現した結果だ。
「私も記念に撮らせてください」と写真の撮り合いっこになった。青砥さんの第一人称は「私」。
教育を中からではなく、外から変えたい
青砥さんは教育に関心ある。高校時代に居場所を感じられなかったのも影響していると言う。白河市には大学がなく、大学への進学率は50%だそうだ。
「教育を中側ではなく外から変えていきたいと思っています。若い人、特に高校生にもっと社会に触れる機会を作って、人生にいろいろな選択肢があることを伝えていきたいです」
教師になろうとは思わない。理由は組織が大きすぎて意思決定に時間がかかってしまうから。その代わり、行政関係者、教育関係者、学術関係の人と連携して、より良い地域社会を作っていきたいと思う。
その一つが、母校の教育実習で一緒だった友人と共に立ち上げたShirakawa Week 。2012年から活動しはじめ、社会学者の開沼博さんを迎えて「福島エクスカーション」などを行っている。
「福島第一原発から40キロほどのいわき市から旧警戒区域の中まで、復興に関わるいくつかのスポットを巡ります。特にこの夏(注:2015年)は、福島エクスカーションガイド養成講座として、少しでも福島の現状を理解できる人が増えるよう、筆記試験も行いました。」
そして、今年の3月にオープンしたコミュニティ・カフェエマノンは、地元の高校生と一緒に、リノベーションに取り組んだ。地元のタイル工職人とタイルを貼ったり、大堀相馬焼の陶芸家とコーヒーカップをつくったり、周りを巻き込み創立した。
(青砥さん提供写真)
「コーヒーが好きです。白河市と清澄白河は松平定信公をつなぐ縁があるので、ブルーボトルで有名になった清澄白河といつかコラボイベントをしたいですね」(青砥さん:左端)
【プロフィール】
座右の銘:若新雄純『ゆるい就職』
「ゆるい所を肯定すること。口だけじゃなく、具体的なサービスを展開するところが好きです」
生年月日:1991年8月29日 おとめ座 O型
経歴:福島県立白河高等学校→首都大学都市環境学部都市環境学科地理環境コース→首都大学東京大学院都市環境科学研究科
趣味:写真、コーヒー
「愛用カメラはNikon FE。1番好きな珈琲店は八王子にあるカザーナコーヒーです」
特技:ポーカフェイス 「内心は喜怒哀楽をちゃんと感じていますよ」
家族:父、母、妹(22)、妹(19)
好きな食べ物:チョコレート
嫌いな食べ物:梅干
お気に入りスポット:新宿界隈、自分のカフェ
好きなタイプ:有言実行する人
嫌いなタイプ:やるって言ってやらない人
好きな言葉:出来るか出来ないかではなく、やるかやらないか
URL:コミュニティ・カフェEMANON(エマノン)
HP http://emanon.fukushima.jp/
筆者とのつながり:2015年8月の福島エクスカーション
(デスク:浜崎 空 執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.11 出会い重ねて紙からウェブへ。媒体横断ジャーナリストの現在地は?
第一印象は“クールな人”。でも、近寄りがたいわけではない。その不思議な感覚のナゾは話を聞いていくうちに解けていった。
月に100本以上の記事をアップするネットメディアの副編集長を務める新志有裕(しんしありひろ)さん(35)。大学卒業後、記者として新聞社に就職するも、配属先は内勤の編集担当。数年後には取材をする、いわゆる外勤の「記者」も経験できたが、転機が訪れた29歳のタイミングで退職を決意した。「最初から外勤の記者だったら、今でも続いていたかもしれませんね」
メディア研究の大学院に進み、多くの人に会った。結んだ縁のひとつひとつが、今を形作る礎となった。
人間の不完全さに興味がある
高校の途中までは理系。「じゃあ白黒はっきりつけたいタイプですか?」などとステレオタイプなことを訊くと、意外な答えが返ってきた。
「物事に理由は求めるけど、答えはひとつでなくていいと思います。わからないものはしょうがないし、想像を超えたことは起きるので」
大学の専攻は経営学。どうやって稼ぐのかということよりも、人間がどうしたら動くのか、組織はどうやって成り立っているのかということに興味があった。「単純に数字だけで考えられないものに興味がありますね。人間ってそんなに簡単に合理的には動かないと思うんですよ。ある意味、不完全なところが面白いです」
中学時代から様々な社会問題に興味を持ち、大学では新聞部に入った。「新聞が好きでした。毎月購読する新聞を変えて、全紙読んでいました。記事を読むのが好きだったんです」
就職活動では、同じ学部の同級生がコンサル、金融、商社、メーカーなどを受ける中、ひとりメディア業界を志望。「自分は浮いていたかも」と振り返る。内定を得たのは九州の西日本新聞社。前途洋々、本社のある福岡へと移った。
しかし、与えられた仕事は取材をする記者ではなかった。
3年間の内勤。その後記者になるも…
約20人の記者同期のうち、内勤だったのは2人。そのうちの1人が新志さんだった。2人の部署は整理部(正式名称は編集センター)。記者の原稿を取捨選択し、写真や見出しを付けていく「内勤の編集担当」だ。午後4時に出社し、深夜2時まで働く生活を3年間以上続けた。「外にも出られず、人生の中で一番鬱々とした期間だったかも」一方で編集のスキルは身についた。整理部配属の同期とは、新聞について日々議論した。
「新聞は、もうつまらなくなってきているのではないか」
新聞が本当に読者に届く記事を作っているのかどうか、よく分からなくなってきた。何より自分自身、昔あれだけ夢中になって読んだ新聞を、仕事として読んでいるだけの状態になっていた。
2004年。ブログが流行り出し、webメディアが徐々に台頭し始めていた頃だ。会社を辞めるか悩んだが、先輩からの「一度は記者を経験してから考えろ」という言葉に従い、新志さんは残った。
そして、整理部の同期は会社を去った。
その後、記者職への辞令を受け熊本県へ赴任。
「最初の1年は地獄でした。入社4年目だったけど実力は1年目。他社の新人記者より動けない。とりあえず火事現場へ行っても何をしていいかわからず、デスクに電話してはいつも怒られるという(笑)でも、3年目以降は楽しい思い出しかありません。つらいことも山ほどあったのに」。
しかし取材も慣れてきた4年目、再び整理部への帰還辞令が出る。20代で内勤業務を2回も経験するのは珍しいことだった。
「正直、熊本の経験で、これから新聞記者としてやっていこうと思っていました。もし、整理部への異動がなかったら今も続けていたかもしれませんね。いや、続いていたでしょうね」
歴史にifはないのだけれど、もし異動がなかったら新志さんは全く違う人生を歩んでいたかもしれない。再度、整理部で1年働いた後に、新聞社を退職した。
大学院時代に撒いた種が芽を出すまで
「メディアをもっと広い視点で見たいと思い、貯金を切り崩して2年間大学院で研究しました」選んだゼミは「情報通信政策」(中村伊知哉教授)。テレビとインターネットの融合などを主な研究テーマにしていた。研究するだけでなく、イベントを開催するなど、実際に何かを作ることも多かった。2012年にはドワンゴと討論番組を共同制作した。
テーマは「震災後の日本にITはどう貢献できるか」。ニコ生(ニコニコ生放送。リアルタイムで配信される映像を視聴しながらコメントやアンケートを受け付けるメディア)で月に1回の放送を合計7回行い、1番組あたり1万以上の視聴数を記録。視聴者からの反響も大きかった。
「当初の進学目的としては、“新聞の将来について考えること”というのも大きかったんですが、様々なメディアに触れていくうちに、もっと幅が広がってきました。新聞とかそういう枠にとらわれるんじゃなくて、純粋に面白いものは何か、ということを追い求めたいと思うようになったんですね」
このプロジェクトを通じて出会ったのが、当時のドワンゴのニコニコニュース編集長の亀松太郎氏だ。
また、ジャーナリズムの勉強会やイベントにも積極的に参加していたため、日本ジャーナリスト教育センター(JCEJ)の藤代裕之氏にも出会う。藤代氏には番組にも出てもらった。この2人が、新志さんにとって、再びジャーナリズムの道を歩み始めるうえでのキーパーソンになった。
大学院生時代の2013年に、福島県いわきで行われたJCEJ主催ジャーナリストキャンプに参加。東日本大震災から2年経った街を取材した。(※写真は新志さん提供)
アルバイトもろくにせず、ひたすら教授のツテを頼って、色々な人に会いに行った。2年目の夏、古巣の福岡を訪ね、記者時代に一番信頼していた女性上司に近況報告すると、こんな言葉をもらった。
「新聞じゃなくて、新しいことしたら?でも戻りたくなったらいつでも言ってね」
当時、亀松さんに「ドワンゴでやれることはないのか」と尋ねてみたが、当時は空きが無くて叶わず。紆余曲折を経て、IT関連のリサーチ会社に入った。
「本当にこれで新聞社を辞めてうまくいっているのか?と思いました。自分がしてきたことが生かされているかわからなかったので」
一方、もうひとりのキーパーソンである藤代さんに誘われ、日本ジャーナリスト教育センターの一員になった。被災地である岩手県大槌町で立ち上げた「大槌みらい新聞」での活動などを通じて、ジャーナリズムに関わり続けることができた。すると2014年3月、なぜか亀松さんから声がかかる。
「今、事業拡大で記者を増やしているんだけど、ウチに来ませんか?」二つ返事でOK。今の会社へ移った。
「大学院時代に知り合った人はたくさんいましたが、その縁はすぐに何かにつながったわけではありませんでした。でも今、そのつながりがものすごく自分にとってプラスに働いているので不思議です」
紙とウェブが拮抗する混沌の時代にワクワク
入社から半年でマネージャーに昇進、副編集長として忙しく過ごす。相談に来る人が多く、なかなか席を外せない時も。昼食もデスクで弁当ということが多い。「何かチームで行うとき、誰かのフォローやトラブル処理を、自分がやることが多いですね」
組織がどうしたら動くのかを考えるのが好きだと言う。「全体として上手く回っていること」が一番なので、時にはバッサリ、非情な判断も厭わない。
マネージャータイプかプレーヤータイプかどちら向きかという質問に対しては、「たぶん後ろから下支えするようなポジションの方が向いているんだと思います。でも、プレイヤーとしてやっていきたいという気持ちも強く持っていますよ。得意不得意はあったとしても、どっちかしかできないのはダメだと思っているので」
そして、メディア業界で紙からwebへという流れが増えている現在、今後は逆の流れも出てくるのではないかと予想。ますます混沌として来て面白い時代になってくると思うとコメント。
ジャーナリズムとは何か?最後に尋ねてみた。
「社会を良くしようとして情報を発信することですかね。いろいろな定義がありますが、それくらい広く考えた方がいいと思っています。自分自身、時代に合わせて柔軟に対応していきたいです」
35歳になったばかりの色白&もち肌の新志さん。「良く手がキレイだと褒められる」とのこと。確かに、女性が羨むほどの美しさ。「いや、でもちゃんと男の手だから」と男性アピールも欠かさない。
【プロフィール】
生年月日:1980年11月24日 いて座O型
経歴:大分上野丘高等学校→一橋大学商学部→西日本新聞社→慶應義塾大学院メディアデザイン科(3期生)→MM総研→ネットメディア会社
趣味:旅行。主に国内。「関西にも住んでみたい」
特技:地図をあまり見ずに場所にたどり着くこと
家族:父、母、弟(31)
好きな食べ物:みそラーメン「福岡でみそラーメンの店を探していました」
嫌いな食べ物:強いて言うなら生臭い魚。でも鮒ずしは大丈夫。
お気入りスポット:滋賀のピエリ守山「生ける廃墟として有名になった時に訪問。復活したらしいので、その姿を見に行きたいです」
好きなタイプ:とらえどころのない人
嫌いなタイプ:固定観念の強い人
尊敬する人:宮本茂(ゲームプロデューサー)
「一見シンプルだけど、それらを組み合わせて奥深いものを作る、絶妙なバランス感覚がすごいと思います」
好きな言葉:“安西先生、バスケがしたいです”
URL:2013年ジャーナリストキャンプ作品
『仮設住宅が「見える化」する暇すぎる独居オヤジの悲哀』(執筆:新志さん)
http://diamond.jp/articles/-/36691
筆者とのつながり:2015年ジャーナリストキャンプ
新志さんが第9章「権利」を担当した『ソーシャルメディア論』(藤代裕之 編著)が青弓社から発売されている。
(デスク:浜崎 空 執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.10 もっと柔らかい人生を-父親とのわだかまりを超えた先に見えたこと-
大学卒業後10年で転職5回、挑戦と挫折の繰り返しだった。「『~すべき』的な硬直した考え方に囚われてきた」という小山祐介さん(32)。だが今、表情は柔らかい。今年6月、環境系のNPOで新たなスタートを切り、「ようやく良い方向に進んでいるかな」と思えるようになったと話す。それは「~すべき」を離れ、より柔軟な「~もあり」へと考え方をシフトできたから。背景には父親との関係を見直したこと、そして自分自身を認めたことがあった。
七転八倒の20代
大学時代は夢や目標がなかったため、就職活動は苦痛だった。「とにかく楽なところを...」
そう思って、漠然と応募をするも全滅。唯一内定をもらったのはIT企業だった。特に強く希望したわけではないが、6歳年上の兄がSEとして生き生きと働いていたのを見て、自分もなってみようと思ったのがきっかけだ。「とりあえず内定が出てホッとしました」
2006年、技術力ゼロでSEになった。入社後、4~5月は研修で勉強三昧の日々が続く。プログラミング(C言語)を学習していく中で、知識豊富な同期に、力の差をまざまざと見せつけられた。それでも負けじと睡眠時間を削り、深夜まで勉強やプレゼンの準備を行う。
しかし、劣等感は日に日に増すばかりだった。奮闘し続ける毎日に、小山さんの心身は徐々に限界に近づいていく。そして2008年、退職をすることにした。
その後、大学事務職員や本屋など数か月単位で転職を繰り返し、数社に身を置くも、「ここだ」という場所は見つからなかった。焦燥感の中にいた。20代が終わろうとしていた。
父親との壁。それを乗り越えた時
小山さんの父親は、昔から何か気に入らないことがあるとすぐキレるタイプだった。小学校6年生の時、家族で帰省先の田舎から戻る最中に、些細なことがきっかけで父親と衝突する。
小山さんの口のきき方が父親の逆鱗に触れてしまったのだ。
家に着いてから「座れ!」と命令され、「お前が俺に何をしたのか言ってみろ!」と言われた。1時間ほどだろうか、正座させられ怒鳴られ続けた。それで済むかと思いきや、翌日から1週間無視され続けることに。ちょうど1週間後の朝、父親の部屋に呼ばれ、恐る恐る入ると-
「お前は優しくて人を暖かく受け入れるのが良いところなのになぜそれができない?これからはもっと自分の良いところを活かしていきなさい」
決定的な一言だった。それ以来、小山さんは人の顔色を伺いながら聞き分けの良い子を演じ始めることになる。
それからも大波小波とあれども、父親とはぶつかった。最大の波が訪れたのは27歳の時。家のFAX取り付けを後回ししていたことに、父親が激怒した。「みっともねぇ!くだらねぇ!情けねぇ」の口癖を連呼された。その日は黙って耐えた。しかし、小山さんの抑圧され続けた怒りの蓋が翌日に吹っ飛ぶ。
父親と胸ぐらの掴み合いをし、今まで思っていたことをぶちまけた。
心の内にあったこと-それは最初のIT企業で体調を崩した時、家族が理解してくれなかった悲しさ、辛さだった。父親に言われた「困っときは相談しなさい」という言葉を信じていた矢先、会社を連続3日欠勤したら「甘やかすとすぐこれだ!みっともねぇ!くだらねぇ!情けねぇ!」と怒鳴り飛ばされた。「休んでもいいんじゃないの?」という一言を期待していたため、その言葉は胸に深く刺さった。
「今まで育ててもらったことは感謝してるよ!ただどこで何をしようと俺の勝手だろう!!」
はじめて父親に声を上げた。
「なんだその言葉は!親に向かって言う言葉か!」と言い返され、その後も論理で捲し立てられで結局言い負かされてしまったのだが、小山さんにとっては大きな一歩となったのは間違いなかった。
30歳を目前にした時期、営業事務の仕事に就く。その時「自分は損得勘定で動けない人間かもしれない」という感情が芽生える。その話を高校の部活の友人に話したら、ふと「お父さんに相談してみたら?」と言われる。今まで仕事のことで父親に相談したことなどなかった小山さんの中に、説明のつかない衝動が走った。夜中23時だったにも関わらず、横になっていた父親に話をもちかけたところ、わざわざ起きてきてくれた。
「企業人として、組織人として、物事を善悪で判断したら苦しむよ」
2人で夜な夜な語り合った。
「この時話をして、初めて父親との関係がフラットになったなって思えました。今まで父親に縛られていたんだということがわかったんです」
やわらかい人生を生きる
今年の5月30日に、「かみあうじかん」というイベントに参加をした。そこで書道をした時
イベントの共同主催者である書道家に言われた言葉が心に沁みた。
「書いた作品の感想を聞いたとき、『すいません、よくわかりませんでした』と言われた方が素直だなと思うし、よっぽど嬉しい。君は感じたことや思ったことを素直に表現してくれた。君は素晴らしい。すごい力を持っている」。価値観を認めてもらえたと感じた。
「全ての物事はその人に起こることは起こるべくして起こっている」、そして「相手と過去は変えられないけど、自分と未来は変えられる」ということを知った。
「様々な価値観を受け入れられるようになったかな。例えば働く上で、収入は低くても自分のやりたいことができればいいし、結婚もできなかったらそれはそれで仕方ないと思えるようになった。自分は“損得勘定で動けない人間”ということを認め、それにあった働き方を考えた時、利益よりミッションを大切にするNPOが合っているのではないかと考えるようになりました」
小山さんの夢の1つは任意団体を立ち上げて、NPOにステップアップ、最終的には法人化すること。
「生きていていい。存在していていい。みんな違ってみんないい。みんなが認められる場所がある環境を作っていきたいと思っています」
それまでは、色々なNPOを掛け持ちしてでも生計を立てていくつもりだ。
人生は何度でも挑戦できる。
32歳になったばかりの今。これからまた新たなスタートラインに立つ。
【プロフィール】
「いろいろな“きっかけ”を作ってくれた一冊」
生年月日:1983年9月9日 おとめ座 O型
経歴:さいたま市立浦和南高等学校→専修大学経済学部経済学科→IT企業
→大学事務職員→コミック専門店→営業事務→NPO法人
趣味:ジム、ファスティング、書くこと、イベント参加
家族:父、母、兄(6歳上)
特技:弓道(2段)、マンドリン、アコースティックギター
「おなかなは第二の家で、ハグハウスは第三の家」
好きな食べ物:回鍋肉(ホイコーロー)
嫌いな食べ物:紅ショウガ。
好きなタイプ:おおざっぱな人
嫌いなタイプ:社交辞令を言う人、神経質な人。
「11年付き合った彼女が神経質でした...」
尊敬する人:山崎ナオコーラ、“おなかま”の田頭 和み(たがしらなごみ)さん
筆者とのつながり:しごとバー「仕事がないナイト」
小説家・山崎ナオコーラ氏に手紙を書いたところ、返信があった。
小山さんはそれから「自分も小説を書いてみたい」と思うようになり、自作を公募したところ4作が佳作として入賞している。
「小説家になりたいという夢はこれからも持ち続けたいと思います」
(デスク:浜崎 空 執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.9 「還暦ビキニ」始動!60歳で赤いビキニをかっこよく着こなす
来年3月で還暦を迎える竹村啓子さん(59)の後姿はまるで20代。19歳の時に出会ったサーフィンは結婚を機に一度は辞めたものの50代で再開。そして同タイミングで30年間の会社員生活から一転、スポーツインストラクターデビューをした。
「60歳になっても赤いビキニを着てサーフィンしたい!」いつ会っても明るくて元気な彼女のパワーは一体どこからくるのだろうか。
元気の秘訣はいたってシンプル
59歳でこのスタイルと体力を保つにはやはり秘訣がある。秘訣といってもとてもシンプル。食に気を付けること、運動すること、そして遊ぶこと。この3つだ。
まず食事。ある日のメニューを聞いてみた。
「朝は食べないです。それは1秒でも長く寝ていたいから(笑)。昼はレッスン後にたんぱく質と野菜メインのランチ。夜は玄米、納豆、目玉焼きかな」
間食はしない。外に出ていることが多く、間食をする暇がないし、動いていると空腹を感じないそうだ。甘いものも食べない。「ドーナッツ食べるんだったらおにぎり食べたい」
健康的な食事内容だが、昔からではなく、50歳まではほぼ肉食オンリー。「吉野家の牛丼を毎日食べるほどだった」と言う。それがヨガを始めてからゆるいベジタリアンになり、牛肉と豚肉を食べなくなった。それ以来、長年の悩みだった便秘と花粉症が解消されたと言う。
運動は、筋トレは週に1回30分のみ。血流の流れが良くなり、姿勢も改善された。その代わり、生活上に運動を取り入れている。普段は階段を積極的に使い、上りは一段飛ばしで、下りは駆け足で降りるのが習慣。以前、第1回インタビュー登場の葛西むつ美さん(同じくスポーツインストラクター)でさえ「早すぎてついていけない」と言っていたほどだ。
最近は「30日スクワット」を行っている。初日は50回からスタートして、毎日5回ずつ増やしていくというものだ。ということは、一体30日後は何回になるのだろうか…
「250回くらいかな」とさらりと言う。「なるべくスピーディーに行うのがポイントです」
そして遊びも存分にする。夏場はサーフィンのインストラクターとしても活動。現在は、学生サーフィン連盟のOGとして運営に携わり、若いサーファーたちのサポートをしている。大学時代の旧友と共に、楽しく行っているそうだ。
「親が楽しそうに遊ぶのは、子ども達にとっても良い影響かなと思います」
旦那さんとも、サーフィンをきっかけに出会った。
夫婦円満の秘訣は「やりたいことをやってあげること。やってもらうことに期待しない」
「子供を成人まで育てるという社会的役割は果たしたので、余生は好きなことをしながら世の人のために尽くしたいです」
母として、妻として、そしてひとりの個人として、役割を全うしながらも楽しんでいる姿が目に浮かぶ。
まる一年ひとりぼっち
仲間が多く、いつも元気でキラキラしている竹村さんだが、高校時代に転機があった。高校1年までは仲間も多く楽しい学校生活を東京で送っていたが、高校2年の時に大阪へ転校したのを機に生活は一変する。転校生というものは最初、一定の距離を保たれるもの。その距離を竹村さんは自ら縮めようとしなかった。思春期のプライドだろう。その結果、周りも近寄ってこず、まる一年一人で過ごした。その時、初めて感じたことがある。
「友達って自然に出来ないものなんだ」
そして、高校3年生になって、「友達を作る努力」をした。できた友達はひとりだったけれど、新たな一歩だった。
「ひとりぼっちだったけど、あの孤独な時間は意味のある時間だったと思います。ひとり遊びも覚えて美術や音楽を深く知りました。何より一人でいることが平気になったのが大きかったです」
後姿も若々しい
『還暦ビキニ』完成
「今は生きていることが楽しい」と話す竹村さん。今年の6月からフリーランスになった。やりたいことは2つある。「1つは40~50代の女性がビキニを着られるようになること。もう1つは太りたい人をサポートすることかな」と言う。
「特に若い男性に多いんですが、あばら骨が見えるほどガリガリでジムに行くのも恥ずかしいと思ってしまう人がいます。そういう人が健康的に体重を増やせるよう指導をしていきたいと思っています」。1対1のパーソナルトレーニングも行っているので、周りを気にせずに体作りをしたい方にはぴったりだろう。
そして8月末に電子書籍を完成させた。『還暦ビキニ-還暦に赤いビキニを着ませんか?-』だ。約半年かけて仕事の合間に書き溜めたものを、周りに協力してもらって一つの作品に仕上げた。パッケージも知人のデザイナーに頼んだ。「タダで作ってもらっちゃった」と無邪気に笑う。筆者も拝読したが、ボディメイクだけでなく、体に良いおすすめのレストランや心の持ち方など幅広い内容で書かれていて読み応えがあった。これから本格的に売り込みをしていく予定だ。
「60歳になったら赤いチャンチャンコより赤いビキニがいいな。でも、赤いビキニって意外とどこにも売ってなくて」
確かに、赤一色のビキニはあまり見かけないような…見つけた方がいたらご一報いただきたい。
【プロフィール】
座右の品:『スターウォーズ』
「ヨーダの教えが大好き。」
生年月日:1956年3月17日生まれ うお座 O型
経歴:羽田高校→北淀高校→独協大学経済学部→バッグメーカー →アパレルメーカー
→専業主婦→生命保険セールス→図面作成会社→スポーツインストラクター
家族構成:夫、娘(28)、息子(26)
趣味:サーフィン
特技:快食・快眠・快便! あとはスクワット。
好きな場所:海。特に水が綺麗で人の少ない波乗りのポイント。
「でも、自分の気持ちが心地よければ、街の雑踏の中でも好きかな。」
好きな言葉:考えるな、感じろ
好きな食べ物:炭水化物、揚げ物、ビール
嫌いな食べ物:牛乳
HP:ブログ『KEIKO Nani Aloha』http://keiko-t.blogfit.jp/
筆者とのつながり:
葛西むつ美さん(http://bubbagump-0404.hatenablog.com/entry/2015/03/24/171416)
の紹介
「サーフィンの時はボードが滑ってしまうから日焼け止めは塗らないの」
筆者(色白)と比べると…差は歴然!
(デスク:浜崎 空 執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.8 好きなことを仕事にする?しない? 21歳、現在モラトリアム中
“好きなことを仕事するor好きなことは趣味にしておいて仕事にはしない”
働くうえで一度はこの問いを考えた人は多いのではないだろうか。
中家穂乃実(なかいえほのみ)さん(21)は小学6年生の時に、当時住んでいたシドニーでダンスと出会う。そして大学時代にニューヨークのブロードウェイを鑑賞したのをきっかけに、ダンスサークルに入部。去年の公演では舞台演出責任者という役割を全うし、達成感を得たのだが―。あれから半年、大学4年生となった今、見つめる先は自分の進む道。迷いながらも進んでいく就職活動の中で見つけた、“やりたいこと”とは。
「1番好きなものは、職業にしない方がいいかもしれない」
表現することが好きな中家さんは踊ることはもちろん、舞台演出にも興味があり、大学ではダンスサークルに入部する。そこは30年以上の歴史と部員総数300人以上を誇る、国内の大学では最大規模のダンスサークルだった。大学3年次には幹部となり、約1年かけ年末に行う公演のストーリー、振り付け、照明、衣装など全てをゼロから作り上げる。また、総演出も仕切り、舞台美術や照明などからダンサーの微妙な心情を表現した。大人数をまとめるのは大変だったが、ダンスをやりたくてやっている仲間たちだ。皆が同じ方向を向いていたため、本番に向けて団結力は高まり舞台は大成功に終わった。しかしその一方で、中家さんは公演終了後にある感情を抱くようになる。
「1番好きなものは、職業にしない方がいいかもしれない」
舞台演出を職業にしたら辛くなるかもしれないと思ったと言う。アイディアを出すことが義務と感じてしまうと好きなものが苦しくなってしまうのではないか、と想像した結果だった。演出を見てもらっていた先生からは「他の人がやりたいことばかり考えてる」と言われた。
「自信がありませんでした。“伝統”というプレッシャーを感じ、保守的になってしまって...自分の感覚的な意見を、論理的に言語化することが出来ませんでした」
自分の中のアイディアはあった。でもそれを何が何でも通すという気持ちにはなれなかったと振り返る。
それでも表現することを仕事にしたい
演出家は難しくとも、やはり「表現すること」が好きと言う。多々ある職業の中で、中家さんが現在志望しているのは出版関係。特に雑誌編集に興味がある。「とにかく雑誌が好きなんです!」と情熱をもって話してくれた。雑誌には言葉や写真、イラストなどたくさんの要素が織り込まれていて、自分は何が好きで何に心を動かされるのかに敏感になることができる。なんとなく生きていた時に自分の興味を広げてくれたり、自分の頭の中で考えるきっかけを与えてくれたりしたのが雑誌だった。
「カフェに行ったとき、近くに座っていたおじさんが読んでいた雑誌がきっかけで今まで知らなかったアーティストと出会えたり、好きな芸能人が紹介しているカフェの中から自分のお気に入りのお店を見つけたり、そういう“つながっていく”感覚も好きなんです」
Web情報とは違って、雑誌は本棚に並べることが出来て、好きな時に好きなページをめくることができるのも魅力の一つだと言う。もし雑誌編集者になったら街の特集をするのが夢だ。
「街歩きが好きなんです。知らない場所やお店へ行ったり、人に出会えたりすることが楽しくて。今度は仕事として、そこで生まれる感動を“雑誌”という媒体を通して多くの人に伝えることができたら最高だと思っています」
あまり知られていないようなニッチなものや場所などを企画して、作り手の気持ちが伝わる特集を組みたいと言う一方で、マーケティングの重要性も忘れていない。
「やはり読者ありきなので、読んでもらえるためのリサーチやマーケティングも大切だと思います。これから勉強していきたいです」
絵を描くのも好きな中家さん。ノートと鉛筆を持ち歩き、思い立ったら描く。
何枚か見せてくれた。
日常で見つけた面白い情景をイラストに。『お昼寝夫婦』
ファッションも好きで、オシャレだなと思った人はイラストを描いてメモしている。
自分の興味を探求中
表現したいという想いだけではなく、アクションも起こしている。現在、2つのことを実践中だ。ひとつは「What’s your dream?」というプロジェクト。友人と一緒に街中にいる観光客などに声をかけて、彼らの「夢」を聞き、それを画用紙に書いてもらう。そしてそれぞれが「夢」を持った笑顔の写真を撮り溜め、facebookにアップしている。
「他の人の夢を聞けて、自分の知らなかった世界に触れられることがとても楽しい。新しい価値観と出会うと得した気分になります」
もう一つはインターンだ。東京・神保町にあるコワーキングスペースでイベント企画や運営のアシスタントをしている。知り合いから、「色々な人に会った方が良い」というアドバイスを受け、紹介してもらったのがきっかけだ。仕事の1つに、これからの街を考えるプロジェクトに主に関わっている。企画することと、それを実行することとの間にギャップを感じている。思うようにはいかなかと思う一方で、実際に動くことで思いもよらず色々な人が協力してくれるのだそうだ。
「まだまだ課題が多いし、受け身になってしまうことが多いので、これからはもっと能動的に携わっていけたらいいなと思います」
【プロフィール】
座右の品:劇団四季『ライオンキング』
「小学4年生の時に家族で観に行って、舞台で表現することに衝撃を受けました」
生年月日:1993年9月20日 おとめ座 A型
経歴 :小学校→シドニー日本人学校→シドニー語学学校(IEC)→Killara High School
家族 :父、母、姉(26)、姉(23)
趣味 :音楽 邦楽だったら星野 源。洋楽はブルーノ・マーズ。
あとは古いアーティストが好きでスティービー・ワンダーは
お気に入り。
特技 :人の良いところを見つけること
好きなスポット:公園、下北沢
好きな言葉:継続は力なり
尊敬する人:親、やりたいことを仕事にしている人
好きな食べ物:から揚げ♡ 鶏肉が好き♡
嫌いな食べ物:生カキ
好きなタイプ:外や太陽が好きな人!
嫌いなタイプ:否定する人
HP :What’s your dream?
https://www.facebook.com/agunavi?fref=photo
筆者とのつながり:しごとバー「仕事がないナイト」
友人からもらった年賀状。
「七福神にいそうだよね」というメッセージが添えられていた。
上段右から2番目が中家さんだろう。違和感は、全くない。
(執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。
No.7 心地のよい場所を見つけるコツ
「ワーク・ライフ・バランス」。
平たくいえば、仕事と家庭、収入と生活、趣味と実益…それらを自分なりにどう折り合いをつけるか、納得させられるかということ。あちこちで議論が重ねられている事柄に、舟之川聖子さん(39)の考えは「(仕事も家庭も)どちらもつらくなるまでやらない。その手前で次のアクション」と小気味よい。
当然のことながら「アクション」のためにはそれなりの準備も要る。「その手前」の見極めも肝心だ。シームレス、そして自然体に続く彼女の“自分が心地よい居場所の見つけ方”とは-。
週4日仕事、週3日自由
現在、派遣として週4日働いている舟之川さん。2つの会社を週2日ずつ掛け持ちしており、収入はここから得ている。そして、休日は趣味的活動に明け暮れる。映像を観て感想を話し合う「Film Picnic」や、百人一首を本気で楽しむ大人の部活「かるたCafe」、本読み仲間と出会うブッククラブ「白山夜」などのイベントを主催している。
周りから、羨ましいと言われることもあるそうだ。やりたいことやって、自由でいいな、と。舟之川さんの中にはただムクムクと湧き上がるもの、突き動く衝動があるだけだ。ボケーとする時間はない。
「常にCPUが動いている感じです。居心地の良い場所を求めて動き続けています」
また、舟之川さんは1児の母でもある。仕事も趣味も育児もこなすメリハリのある生活。これこそがベストといえるワーク・ライフ・バランス!しかし、このような生き方を彼女が手にするまでには長い道のりがあった。
理想と現実のギャップ
大学時代は映画に夢中になり、卒業後に上京して映画の専門塾で半年間勉強をした。配給や制作をしたくて映画の興行会社に入社したが、配属は映画館でのバックオフィス業務。
当時1990年代後半はシネコンが台頭しはじめ、ハリウッド映画や子ども向けアニメが大流行の時代。年末年始やGWなどの繁忙期は早朝から夜遅くまで働き、大好きだったはずの映画さえも観る時間がとれなかった。
「思っていた仕事とのギャップがあり過ぎました」
そして入社してから3年半、退職を決意する。
退職後、思い切って姉夫婦が住んでいるドイツへ飛ぶことに。約3か月間を過ごし、語学学校へも通った。語彙を1つひとつ覚えていくことや、少しずつ周りと会話ができるようになるにつれて、小学校の頃に戻ったような新鮮な感覚になっていく。
「人とコミュニケーションとるのって楽しい!」
初めての感情だった。この感情を得たことが舟之川さんの転機となる。
周りに声をかけてもらえるワケ
帰国後、敢えて派遣社員というポジションを選ぶ。仕事以外の時間を自由に使いたいと思ったからだ。17時で退社した後はドイツ語教室にも通った。
「ドイツにはまた行きたい。まだ行ったことない他のヨーロッパの国へも」
その後、外資のコンサルティング会社、助産師団体、人材コンサルティング会社などで働く。「私の中で一貫していることは、自分のやってきたことに意味を感じられるかということです」
転職の際、人材サービス会社を使ったがあまりしっくりこなかったと言う。
「今までのキャリアやスキルのみで転職先を選ぶことに違和感がありました。本当にやりたいことまでマッチングしてもらえないと感じて」
これらの就職のきっかけはほとんど知人を介してだ。ターニングポイントごとに周りから声をかけてもらえているのはなぜだろうか。
それは彼女が常にキョロキョロして、能動的に「こういうことがしたい」「こんな仕事がしたい」ということを周りに伝えたり、facebookなどのSNSも使い自分の気持ちを発信したりしている。だからこそ、「一緒にやってみない?」「一緒にやろう」というめぐり合わせがあるのだ。
生きたい道がある。進みたい方向がある。
本当にやりたいこと―それは “舟之川個人”が役に立ちたいということだった。人とコミュニケーションをとっていく中でそのことに気づいていった。
「その人の人生に影響を与えるような仕事をしたいと思うようになりました。仕事において、“〇〇会社の舟之川”ではなく、“舟之川がいる〇〇会社”という立ち位置で必要とされたくて」
たとえ業務上の付き合いでも「担当者同士」としてではなく個人で付き合いたい。「役立ち」を感じることが、自分の存在意義になり「次」を拓く原動力となる。その場所を求めて舟之川さんは自由に生き場所を変える。そのためには一緒に働く人も重要なポイントだ。
「自分の仕事が好きな人が良い。お金だけが目的ではなく、お互い刺激し合ってより良いものを生み出そうとする人と働きたいです」
今は何事も楽しむことを大切にしている。現在は育児をしながらの生活のため自由に使える時間が限られている。
「“本当にやりたいことだけをやる”ことに徹しています。本当にしたいことがあったらあらゆる手を尽くしています」
今後も派遣を続けていくかという問いに対しては「わからない」と答える。今は毎日が充実し過ぎているため、今後もこのまま充実をキープもしくはアップさせていきたい。そしてリミットを設定せずに、自分の中になる溢れる気持ちを大切にしていきたいと話す。
「ただ、楽しくてワクワクするのであれば続けていきたい。あとは体のメンテナンスの時間が確保できるだけの時間があれば何でもOKです」
座右の品: パウロ・コエーリョ『アルケミスト』 「どんな気分の時でも読める」
経歴:滋賀県立膳所高校→大阪外国語大学イタリア語専攻(現・大阪大学外国語学部)→映画興行会社→コンサル会社→NPO団体→ハバタク株式会社
生年月日:1976年1月15日 やぎ座 AB型
趣味:最近はジム。「パーソナルトレーニングで姿勢の改善をしています!」
特技:ネコの鳴きマネ(本当にネコが寄ってくる)
好きなスポット:代々木ポニー公園
好きな食べ物:肉
嫌いな食べ物:メロン
好きな言葉:「自分の信じる道を見つけて進んでください」
高校の美術の先生に言われた言葉。「先生、見つけたよって言いたい」
HP:ブログ Art in Me http://seikof.blog.jp/
筆者とのつながり:greenzオープンランチ
(執筆:小野 ヒデコ)
<小野ヒデコプロフィール>
おの・ひでこ 1984年生まれ。自動車メーカー、アパレル会社勤務を経て2015年にライターに転身。